ある一日の素描


きょうは、最近のある一日を日記風に書いてみよう(内輪向けなので、関心ない人はとばしてください)。
先月の29日(金)は、忙しなくはあったが、ちょっとプラトーな(ハイな)おもしろい一日だった。
午前中は、事務所でデスクワーク。企画書など資料作り、ネットでいくつか調べもの。
午後イチから大久保で、来年春に予定されている「恐竜展」のためのミーティング。
展示や図録の構成案などで意見を出し合う。その場で見せてもらった恐竜のラフスケッチ(線画)にいささか興奮。これは、ここ10年くらいの間に南半球で発掘された骨(骨格)に基づき「肉付け」された恐竜たちで、数匹は本邦初! つまり、ほとんど既存のイメージがないため、断片的な化石資料と論文から、学者とイラストレーター、そして編集者やデザイナーなどが議論しながら「絵」にしていく作業工程の一段階である。日本における恐竜学の第一人者T先生の情熱と気配りに、たびたびの感動。
しかし、展覧会の具体的全貌はまだまだ見えない。困難多く、道遠し、といった感じ。
16時ころ途中退席し、本郷へ向かう。アリストテレスと現代研究会(通称アリ研)のアラキトテレスこと荒木先生を迎えに行くためだ。
この日、荒木先生は翌日の早稲田大学でのシンポジウム出席のため、岡山から上京。投宿される本郷のホテルで落ちあい、夜のアリ研の親睦会(ノミ会)会場へお連れしなければならない。しかし、大雨の影響で新幹線に遅れが出ているらしい。携帯に参加者のひとりから「だいじょうぶだろうか、心配」と連絡がはいる。荒木先生は携帯を持っておらずこちらから連絡がとれないので、とにかく、待ち合わせ場所であるホテルまで行ってみるしかない。
昼食をとる時間がなかったので腹がへり、本郷三丁目駅そばのマックで120円のチーズバーガーを買って、パクつきながら徒歩でホテルへ向かう。
荒木先生は予定より遅れはしたが、なんとか会に間に合いそうな時間には到着。先生チェックイン後、急ぎタクシーで会場のある馬喰町へ向かう。秋葉原を通過したとき、どのあたりで「あの事件」が起きたのか?と、アラキトテレスが運転手さんに問いかける。
待ち合わせ場所である食とアートの空間「馬喰町ART+EAT(アートイート)」に出席者がほぼ集合した18時半ころ、近くの「佐原屋」という昭和のなつかしい風情をとどめた居酒屋へ移動。ちょうど「アートイート」では19時から、ピーター・ブルックの劇などで「知る人ぞ知る」音楽家・打楽器奏者の土取利行さんのセミナーがあり、気持ちは半分そっちにひかれはしたが、時間がかさなっていたのでしかたない。廊主であり友人の武さんとあいさつを交わし、8月の間ここで開催中の「ブナ帯文化」の展示に関して、林のり子さんご本人から簡単に解説をいただいて、そこそこに「アートイート」を失礼した次第。
佐原屋2階の広間に集ったのは、アリ研メンバー以外の出席者を含め男女9名。荒木座長、委員長ほか、アーティスト、出版人、編集者、ライター、舞台俳優、社会福祉活動家…、という顔ぶれ。はじめて顏を合わせた方々もいる。それぞれ職業、立場、年齢、性別は多様でありながら、ひとつのテーブルを囲むということでは、多すぎない人数。
話題はギリシャ悲劇からはじまり、『アンティゴネー』の政治学における重要性や、『バッカスの信女』等における「女の狂気」、マニアックとエンスージアスムのちがい、アリストテレスによるポイエーシスとミメーシスをどう理解するか、キューバという地の「小さな国の大きな奇跡」、自然とコミュニティ、民藝における実作者とコレクターの関係、地域活性化と芸能イベント、企画力とプロデュース力、来るべきインフレ社会等々、話はつきもせずブリコラージュして、どれもが興味深く、意義深いものだった。


意義深いというのはひとつの言い方だが、目的にそって議論し「結論」を出すという通常の会合からすれば正反対の意味である。つねづね、ときには”高度”な雑談があってもよい、いや必要だと思っている立場からいうと、なかなか事前に「ねらって」それをやるのはむずかしいし、その意義を直観的につかみ、話にのれる複数の人が集うことのできる場も機会も、じつは希少なのではないか。目的も結論も求めずとはいっても、ある「思い」において共有できるものがないと、ひとの話などきかずテンデンバラバラに演説し合うか、飲んでさわいであとはなにものこらず、で終ってしまう。世の中そういうのがあってもよいが、多すぎると思うのだ。
では、あの場で共有されていた「思い」とはなんだったか。唐突だが、数日前に読んだある本のなかにあって、さりげない言い方ながら、ひとつの「決定的」と思われる言葉を借りると、それは「市場経済を超えた領域」への思いということ。市場社会に生きながら、それから降りるのではなく(そんなことはできないし、市場経済のよい点だってあることを認めつつ)、その先、あるいはその”横”に市場価値とは別の価値が流動する領域を見出そうという点において、程度の差はあれそれぞれが共通のまなざしと心の傾き(ヘクシス)を持っていたのではないか、ということだ。これも、ひとつの言い方にすぎないのだが。ほのかに明滅する、「仕合わす」ことのサイン。幸福の恐竜たち、その下書き。
店を出ると、外は雨。
散会したあと、秋葉原駅近くでタクシーを拾った荒木先生を見送ってから、透明なビニール傘をさしてひとり駅へ向かう。
記号化された夜の大都会、濡れた道路に映る車のライトや看板の明かり。なんだか映画的。
そういえば、映画のなかの夜の道はいつも濡れている(これ、映画の基本文法)。
水彩画のように夜の町に滲み、漂う人影。
彼らは、そして私はどこへ帰るのか。
取りあえず寝床へ? 
人はみな眠る。その点では、みな同じ。ほっとすることではある。
恐竜は電気街の夢を見るか?
舌足らずでわかりにくい文、まあ「日記風」ということで。

2 thoughts on “ある一日の素描

  • 2008年9月5日 at 9:40 AM
    Permalink

    石井さま
    「場」とは何か?を考えさせられる日記です。
    時間と空間の交差点である「場」に集う人々がそこにどんな思いで何を求めるのか?
    それに尽きるようにも思います。
    それは 「アリ研合宿」も基本的に同じとおもつています。
    2008/9/5

    Reply
  • 2008年9月5日 at 10:32 AM
    Permalink

    コメントありがとうございます。
    おっしゃるように「場(トポス)」の力というものがあるように思います。
    そこに人が「無縁」のものとして加わることで、記憶と予兆の明滅する場となるのかもしれません。
    偶然性に身をゆだねることもときに大切なことなのでしょう。

    Reply

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