ニコマコス倫理学 1 <現代口語訳・注>荒木 勝 + 石井 泉


ニコマコス倫理学読解合宿を経て
荒木先生とともに、蒜山からのドライブ中、大山を望む  2017/10/04

 1  

【人生の目的は重なり合っている】

 どんな技芸、どんな研究や実践、また日々のどのような選択行為も、なんらかの「善」を目的として追い求めるものであると思われる。

 <この「技芸」の原語(ギリシア語)はテクネーであり、現代でいえば技術と芸術の双方を含む。ラテン語ではアルスars がそれにあたる。アリストテレスにおいてテクネーは、広い意味で、人間が自然に対して抱く根源的で普遍的な「知」のあり方を示している。そのことから、テクネーとは自然に働きかけ、そしてそれを再現(表現)する知性としての技術・芸術という理解を導き出すことができる。
 それと関連する単語に制作的・創造的知のあり方を示すポイエーシスという語があるが、体系的・学問的な知(エピステーメー)、また善悪の判断にかかわることの実践を目的とする実践知(フロネーシス)と区別される。
 今日、現代芸術の潮流において、テクネー(アルス)という概念から技術と芸術の境界が改めて問い直されていることに注目すべきであり、同時に現代の科学・技術の語彙としてポイエーシスという言葉が使われることにも注意を向ける必要がある。ポイエーシスというギリシア語自体にはもともと詩作の意味があり、真の詩は「神のなかにある」とされていることにも、テクネーとポイエーシスの関連を考えるうえでたいへんに興味深い示唆が含まれていると読み取っておきたい。>

 その善は万物が希求するものである。しかしながら、それら諸々の目的にはそれぞれ違いがあるように思われる。すなわち活動することそれ自体が目的となることがあり、活動の結果生じる成果が目的となる場合もある。つまり善の目的にも実践活動とは異なることがあり、その場合においては、活動それ自身よりはその成果のほうがより善いものとされるのは自然なことだ。

 <善(タガトン。定冠詞付きの善そのもの)を万物が指向するものとしたアリストテレスの定義は、彼の善に対する考えの基本的視座を示すものである。人間にとっての善だけでなく、アリストテレスの見解としては、神々の世界における、また自然の世界、とりわけ生命をもった生物すべてにおける善が念頭にあったと考えられる。すなわち、存在するあらゆるものが己れの自己完成を希求し、それが現実に現れ出る活動(エネルゲイア)を引き起こして、すべての存在者(ウーシア=エッセ)の完全な開花を目指すこと。それこそが存在するもの各々の目的=善とされる。
 アリストテレス倫理学における善の理解が、人間中心主義に基づいていないことは注目に値する。生物多様性保全の現代的課題をこの視点から考察する意義をここに見出すことも可能だろう。>

 また、実践方法にも技芸にも、専門知識にも多くの種類がある以上、それらが目的とするものにもさまざまなものがある。たとえば医療においては健康を、船大工はよき船づくりを、戦いの指揮官は勝利を、家政術(オイコノミア、経済の語源)は富をそれぞれの目的とする。しかも、これらの技能の一つがより大きな技能の目的に従属する場合がある。つまり、たとえば家づくりにおいて大工職人は棟梁のめざすもののために、馬具の製作は兵士が馬を乗りこなしやすくするためだが、それはさらに軍隊の指揮官の戦術遂行に奉仕するためである、というように、ある目的はより大きな目的のために追求されるからである。このことは、行為の目的が活動そのものである場合にあっても、いま述べたような専門技術の習得における活動とは別の何かが目的であっても、少しも変わりはない。