道しるべの文字「栁緑花紅」─ その1─

– 大津追分の道標 –
「ひ多りハふしミみち(左は伏見道)」line「みきハ京ミち(右は京道)」
zoom 写真1(左)、写真2(右)

 今回は石に彫られた道しるべの文字です。

 東海道から伏見、奈良に分かれる三叉路、追分に建つ道しるべですが、「ひ多りハふしミみち(左は伏見道)」(写真1)もう一面には「みきハ京ミち(右は京道)」(写真2)と、かな、変体仮名、ひらがなを混ぜたゆったりとした行書体の文字が彫られています。

 「京」だけが著しく漢字です。これなら大方の旅人に読めそうですが、よくみると「ふしミみち」の「み」の字の重複を、一方をカタカナにしたりして造形的に変化をつくっているのですが、そのために読み易いばかりではなく、微妙な美しいリズムがうまれています。それはもう一面の「みぎ」と「京ミち」の「み」の重なりも同じです。

 ところがもう一つの面では「栁緑花」(栁は柳の異体字)(写真3)と読める堂々たる行書体の文字がゆったりと、旅人の目に立ち塞がってきます。よく見るとその下に踞るような文字があって、これが上の三文字から極端に小さく、しかも草書体で「紅」と書かれています。

– じつは50年前にも –
「柳緑花」(栁は柳の異体字)
zoom 写真3

 これは、いまから50年も前のことになりますが、夏休みを掛けて訪ね歩いた私の「文字への旅」の、このとき八月の暑いさなかを、大津から京都三條へ向かう街道の取材をしていて、追分の分岐点に建つこの道標に出会ったときは、その偉様に感激!だったのですが(「蓜島庸二編著『祈りの文字』芳賀芸術叢書1975年刊」参照)、今回改めて、その分岐点に立ち戻って「京ミち」つまり都への道を辿ってみたいと思うのです。

 いまでもありありと記憶しているのですが「栁緑花紅」。その時とっさに私の頭に浮かんだものは「見わたせば柳桜をこきまぜて・・・(素因法師)」という、かの古今集の情景。また一方で、なんだこれは茶会の床の間などで、どこそこの禅僧の墨跡としてよく目にする、あの「柳緑花紅」じゃないか。いずれにしても、なんとも月並みで、その時はむしろその道標の根方に建つ「蓮如上・・・」とだけ見せて、おそらくこれは「蓮如上人御塚道」と書かれていたはずで、もう一面に「明和三年(1776)」と。

 これは蓮如上人の没後(1449)270年経ってからの建立です。私は半ば埋もれかけた小さな道標の方に心を魅かれて、そこからいわゆる「蓮如道=民衆の道」を辿ることになったため、しかしそれは断続的に継続していて、ついに福井の吉崎御坊まで足を伸ばすことになるのだが、ついぞこの「栁緑花紅」の碑文には触れずじまいだった、そのことが、以来何んとなくわだかまりながら長い歳月が過ぎたわけです。

 そういう、私にとってちょっと因縁めいたこの「栁緑花紅」ですが、先にも書いた通り、これは当時からちょっとした人ならば「ああ、あれか」と、誰でも、しかも中には「栁緑花紅真骨頂」と、その本歌まで読み通す者ももちろんあったでしょう。

 さて前置きは措くとして、碑文はまず、栁の旁の卩(ふしづくり)の縦画を極端に伸ばして、次の緑との間をぐっと引き離しているために、そのあおりを食ってか最後の「紅」が・・・。活字やフォントで育った者にはなかなか理解しにくいのですが、もともと筆で書く文字は、基本的に心と手の連携による身体行動によって生み出されるものですから、そのときの書き手の気持ち次第で、このようなことはまま起こりうることです。

 この碑の場合には、そのことがうまく作用して、というよりもむしろ碑面の字配りとして始めから書き手の作為がそのようにあった、と見るべきで、一つの大きなアクセントを作り出していて、忙しく行き過ぎる人々の目を引く強さを生み出しています。

 更にその下に小さく「法名未微」と割って添えられていますが、これはたぶん未微という僧侶が、この道標を建立し、あるいは揮毫もした、ということかも知れません。昔はよく勧進聖とか勧進坊主といわれる僧侶が、このように必要と思われるインフラを、寄付を募っては整備する、といったことが行われたらしいのです。

 それにしても「栁は緑 花は紅」とは、あまりにも当たり前すぎて、はて、どうしたものか? 先にも述べたように、モノの本によるとこの本歌は、中国宋代の政治家であり詩人の蘇東玻の詩の一節だということです。人生いろいろと迷ったり理屈をつけるけれども、結局、その変哲も無い当たり前とみえることこそ真理なのだ、ということらしいのです。ちょうど「空即是色」と言い返すようなものかもしれません。なるほど「栁緑花紅真骨頂」と、そこまで一気に読み切ってみると、このことばの強さ、世界をすぱっと両断するような気迫が伝わって来ます。と、いわれても凡人にはなかなか・・・。また、そこだけ取り出して刻んだこの碑の真意は? そんなありがたい言葉がなぜ道標に? と、誰しも思うところです。ここは取り澄ました茶室などではなく、日々刻々、人が行き交う埃っぽい路上だからです。

 旅の途上で、「やなぎはみどり、はなはくれない」という至極当たり前の、それゆえかえって謎めくこのメッセージを、道行く人はいったいどのような気持ちで見たのでしょうか。

 案内に従って京道をとるならば、はるばる東海道を上って来た、例えば旅人Aにとって、都はすでに目前にあるわけで、先にも引いた素因法師の歌の、下の句「都ぞ春の錦なりける」といったそんな高揚感でふと胸を一杯にしたかもしれません。それがたとえ冬の最中にあっても、です。

 また反対に都から東国その他へむけて旅立つ旅人Bにとってならば、最初のこの分岐点にさしかかって、都の華やかさの裏側で、決して幸せではなかった自分の来し方を思い、またこれから先の旅の苦労が眼前に立ちはだかって、あらためて世の無情変転の様を、しみじみと噛みしめながら、同じ花でも、

「世の中は地獄の上の花見かな」

 などと、どこかひりひりするような達観? を胸に、うそぶきながら・・・、だったかもしれません。

 あるいは旅人Cでは、そしてDでは・・・と、それが武士であるか、そしてその身分は。もしかして敵討の、追う方かそれとも追われる方か、編み笠は深いものか、はたまた・・・。また町人であるか、男か女か、さらに傀儡や放浪の旅芸人やが、この碑文を見上げながら(大男の背丈ぐらいある)行き過ぎたはずの、じつにさまざまな旅人の立場々々に、つまりそれぞれのトポスに、それはどのように作用したのか、という思いにかられるのです。あるいは、

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人也」(芭蕉/奥の細道)

 とつぶやきながら、これは旅そのもの、というよりも、人間の上を不可逆的に過ぎ去ってゆく「時間」を主人公にして、これは、柳や花ではなく、ちょうど日々天空を旅する太陽と月という神話をそのまま自身の詩神に託しながら、終世を旅に生きた詩人の、この場合は北へ向けての、いくぶんネガティヴな寂びた旅のトポス、というものもここには当然あって、そんな旅人の気持ちも、この碑文はそのまま、受け止めていたのにちがいないのです。

– 文字にこめられた時間/ waheiさんへ –

 と、ここまで書いて来て、なんだか旅のアレゴリーの迷路に踏み迷いそうな、もちろんテーマが道標ですから、それもアリなのですが、それは後のことにして、もういちど、ではそれらがこの道標の文字に、具体的にどのように止められているのか、つまり文字そのものに立ち返って、見てみなければ、と思ったのです。

 というのもじつは、この「町まちの文字」という私のホームページのNo 11「アルカイックな・・・・」に書き込みをしてくださった waheiさんという方のご指摘を思い出したからです。

 詳しくはNo. 11のコメントをご覧頂くとして、それを要約すると、

 筆やペンで書かれた文字には、人を惹き付ける引力を感じるのに、ケータイや電子ブックの「フォント」にはこの力が感じられない。それは活字やフォントには、一つの文字を書くにあたっての時間の「経過」がみられないせいなのではないか。その経過が「完全なものに向かっていく力」として働くのではないか。

 と、およそそういった意味のものでしたが、文字を「時間の経過」とみる waheiさんのご指摘はまさに卓見で、およそ手書きの文字は、まず起筆から一点一画書き進んで書き上げていくわけですから、どんな小さい文字でも、そこに時間の経過が内在しています。つまり「筆順」あるいは「書き順」といわれるものです。やはり(またアレゴリーの・・・と笑われそうですが)その極小の旅の一節であり、やはり「過客」の一員であった、ともいえそうですが、それではそれが、この「栁緑花紅」という江戸時代に書かれた道標の、石の文字ではどうなっているのか、ということを見てみたいと思うのです。

栁line花line京
zoom 左から写真4、5、6

 まず「栁」の旁の卩(ふしづくり)の起点が左のタと重なる部分(写真4)、その重なりがが、はっきりと浮き出すように彫られていることに注目してください。「花」のイ(にんべん)の縦画の起筆(写真5)、「紅」の糸(いとへん)から、旁の工へ続く一筆書きにした草書の線など(写真5)、京の縦画(写真6)などまだまだありますが、それらは明らかに筆の線が走った時間的な経過が、線の重なりとして、辿ることが出来ます。

 つまり後になる方の線が上に、ちゃんと浮き出すように彫られて、これらの文字を書いた、その時の人間の身体行動の、時間的なありさまつまり「筆順」がはっきりととどめられています。これを仮に文字に込められた「時間の相」と名付けるとすると、それを可能にしたのは、この重なりの表現、例えばイの縦画の起筆の重なりの部分、よく見ると重なるところが部分的に双鉤(そうこう)=袋文字としてその輪郭を残しています。そのことで前後の関係が現れ、時間的な経過として「表現」されているのが分かります。

– 石工の工夫 –

 じつはこの表現には少し工夫が要って、書き順序の通り彫っていってはこうはならないのです。つまりノの方を先に彫ってしまっては、残すべきこの袋文字の輪郭線が削られてしまうからです。そこで石工は、筆順とは反対にイの縦画なり、その頭の重なりの部分かを先に彫っておく、そうしておいてから、ノの画を、その縦画の頭の輪郭線を残しながら彫っていく、というわけです。文字の「時間の相」はこうして表現されていたのです。

 ただ、昔の石碑ならみなそのように彫ってあったか、というと、必ずしもそうはなっていないのですが、それはまたそれでさまざまに興味深い問題をはらんでいるのです。

 まあ、それはともかく、いまどきの文字は、道標にしても墓石の文字にしても、コンピュータを駆使して機械で彫りますから、これが出来ない。それでも、そのように彫ろうと思えば出来るはずですが、それは、waheiさんの云われるように、そのような時間的な視点が、どだい抜け落ちてしまっている、ということでしょう。

 れは、前回のNo.12「多重の碑」でも、文の最後に付け加えた、建て直した新しい「神國大日本」の文字も、とうぜん機械彫りでしょうから、こうした筆順に対する配慮はなく、平板なものになっていたのは、やむを得ないといえば云えるのですが・・・。

 またこれも前のNo.2「表札鑑賞の楽しみ」で書いた昨今の家々の立派になった表札事情も、それがたとえフォントでなくて手書きの文字を原稿にした場合でも、それをデスクトップで処理し、彫刻機に送るわけでしょうから、一字一字正確に同じ深さに彫ることが出来て、そういう美しさが文字の、あるいは表現の価値になって、それではこの碑で見るような、文字に込められた「時間の相」、旅のドラマは生まれようがないのです。


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