アリストテレス政治学における「正」の位相6


タクシス(整序)とエートス、政治学と倫理学の相関の視座より荒木勝(岡山大学教授)
[6]拡張的転用としてのディカイオン 〜奴隷制について〜
1. 矛盾的存在としての奴隷

 さて以上述べてきたように、アリストテレスにおいては、正・権利は、人間がなんらかの共同的結合体を形成している場にはどこにも存在する普遍的な関係原理であったが、それは人間が基本的には自由意志を持つ均等な存在であることを前提としていた。正とは均等な者たちの間に成立する比例的関係であったからである。しかしながら、奴隷主と奴隷の間には、人間としての均等性はなく、奴隷は主人の道具として主人の所有物であったから、奴隷には自由な意志の行使は認められていないということになる。奴隷とは、アリストテレス自身の規定においても「人間でありながら、その自然本性上、自分自身のものでなく他の人間のものである者」である。しかし先に紹介したように、そうした奴隷主−奴隷関係にも、アリストテレスは一種の正・権利が存在すると主張している。それではそのような見解はいかなる論理に支えられているのだろうか。

 まずアリストテレスの奴隷制にたいする理解を整理しておこう。それは『政治学』第一巻の若干の章でほぼ説明されていることであるが、このアリストテレスの奴隷制理解の前提には、当時のギリシャにおける奴隷制をめぐる論争が存在したことをまず確認すべきであろう。当時から奴隷制は是認されるべき制度であるか否かが真正面から議論されたことは、人はすべて平等に生を受けた存在であるという主張がアリストテレスによって紹介されていることからも十分窺うことができる。『弁論術』第一巻第13章でアリストテレスは周知のように自然の法について言及し、「人々がお互いに共同生活を営むとか、協約を交わすということがない場合にも、自然における共通の正(ディカイオン)不正(アディコン)が存在し、人々はそれを予感・予知する(マンテウオー)」ことができるものとし、その例を死者への平等な埋葬や殺生の禁止に求めているが、そのような文脈において、アルキダマスの『メッセニア人を讃える演説』を引用し、人間の平等性を自然の法に属するものと見ている。

「神はすべての人々を自由人(エレウテロス)として放ちたもうた、自然(フュシス)は誰一人をも奴隷としてつくってはいない」(『弁論術』1373b17-18)。

 こうした立場にたてば、そもそも奴隷制そのものの意味、正当性そのものが問われることになるであろう。事実アリストテレスは、戦争による征服や強制に基づく奴隷制には反対しているようにおもわれる。

「ある人々は、彼らの考えるところに従って、ある種の正(実際、法もまたある種の正であるから)を振りかざして、戦争に基づく奴隷制を正しい事柄と看做しているが、しかし同時にかれらはそれを否定しているのである。というのは戦争の起こりが正しくないこともありうるからであり、また人は、奴隷として奉仕することに相応しくない人を奴隷であるとはいわないからである」(『政治学』第一巻1255a20-25)。

 しかしながら、これもまた周知のように、アリストテレスは、奴隷制そのものはこれを認容しているようにも思われるが、それは、奴隷制が自然本性に基づいている場合に限っている。この自然本性的奴隷制を認める論理は、端的に言って、理性をわずかしか持たない人間にとって、理性を持つ統治者によって統治される方が、有益になるという、人間の種類の二分法に基づく統治観である。

「こうして魂が肉体より、人間が野獣より隔たっているほどに、他の人々と掛け離れて劣っている人々は(その仕事が肉体の使用であるような人々は、これと同じ状態にあり、これが彼らから生み出されるものの最良のものである)自然本性的奴隷であり、彼らにとっては、先に言及した者達にたいするのと同様の統治をもって統治される方がより善いことなのである。なぜなら、他人のものでありうる人間(それゆえ他人のものである)、あるいは、理性(ロゴス)を持たないが理性を感知する程度には理性に関与する人間(それゆえ、厳密に言えば理性を部分的には持つ─筆者)こそ自然本性に即した奴隷であるから」(『政治学』第一巻1254b22-23)。

 アリストテレスはここでは、人間を、理性をもつ者と、一部分しか理性を持たず、それゆえ理性所有者の人間に肉体的奉仕によって仕える人間とに二分している。この肉体的奉仕は、しかしアリストテレスにおいては自由人の労働の下働きとしての道具と指摘されていることに注意すべきであろう。労働自体は、生産的労働であろうと消費的労働であろうと、あくまでも自由人の家政的営みであった。 この家政的営みに下働きとしての奴隷が求められたのである。しかしながらそうではあっても、そうした二分法的人間観は先にアルキダマスの議論を紹介のところで述べた自然法的人間観と根本的に矛盾するのではないだろうか。

2. 第2次的な自然本性的な法としての正・権利

 この問題をアリストテレスに即してそれなりに一貫した論理によって説明することができる一つの可能性は、自然的正そのものへのアリストテレスの理解を再度吟味することであるようにおもわれる。

 アリストテレスは、『ニコマコス倫理学』第五巻第7章において、市民的政治的正にも自然本性的正と実定法的正が存在するとした上で、実定法(ノミコン)的正が場所、時代においてその妥当性が変動することを自然的正の普遍妥当性に対比している。

「自然本性的な正はいたるところ同一の妥当正を持ち、それが正しいと考えられていると否とにかかわらない」(1134b19.20)。

 が、しかしアリストテレスは他方で自然的正それ自体もまた変動を蒙るものであるとしている。

「だが、我々のもとにおいては、なにかある種の自然本性的なものが存在しているが、それにもかかわらずすべてのものが変動するものであり、そこにやはり自然本性によるものと、そうでないものがある。だが『それ以外の仕方においてもありうる事柄』のうち、いかなる性質のものが自然本性によるものであり、いかなる性質のものがそうではなく人為法的(ノミコン)であり協約によるものであるか、──双方とも同様に変動的なものでありながら──、は明らかである。同じ区別は他の場合にも見出されるであろう。たとえば自然本性的には右手のほうが強い。しかしなんびとも両手利きたりうることもあるのである」(『ニコマコス倫理学』第五巻1134b29-35)。

 自然本性的なものであっても変動を免れるものでないとすれば、アリストテレスはここで、自然本性的なものでありながら変動するものと実定法的に変動するものとの2つを区別していることになろう。では自然本性的な正でありながら変動するものとは一体どのようなものであろうか。この点を示唆するものが、引用の後半部分の手の利きの実例であろう。そこに示されているのは、人間の自然的な普遍的能力としては両手利きとなる可能性を持っているが、大抵に人々においては、日常的生活の習慣において右利きになる、という理解である。これを正の問題に引き写せば、人間の本性・本質そのものに関わる事柄においても、日常的実践の場での慣行としてのあり方において大抵の人々が行っている事柄は、かなりの程度普遍性を有する事柄としてある種の自然本性的事柄として位置づけられるのである。こうした事態はローマ法での万民法がある種の自然法と解されるものに似ているということができるであろう。これを2次的な自然法的理解とすれば、さきに引用した万人平等を主張したアルキダマスの見解は、第1次的な自然的正と位置づけることもできよう。

 したがってアリストテレスにおいては、自然本性的な奴隷制は、こうして第2次的な自然法のレヴェルにおいて是認されるものであった、ということができる。より正確にいえば、人間でありながら他人の道具として存在する奴隷は、いわば第1次的自然的正と第2次的自然的正の乖離の産物であった、と理解されていたと思われる。そこからまたアリストテレスにおける奴隷主的正の主張も構成された、と解することが可能になる。しかもその見解は『政治学』にも『ニコマコス倫理学』にも登場し、それを踏まえたアリストテレスの遺言(伝承)まで一巻して貫かれているのである。

 『政治学』第一巻第6章の文章は次のようである。

「奴隷と奴隷主の間には、お互いに対してその自然本性的に価すると思われる仕方に従えば、ある種の共通の利益があり、友愛が存在する。しかしこうした場合でなく、法や強制に基づく場合には、その反対の状況が存在する」(『政治学』第一巻第6章1255b12-15)。

 この箇所への注としてバーカーは、『ニコマコス倫理学』第八巻第11章への参照をもとめ、次のように言っている。「それゆえ奴隷が人間であるかぎりにおいて、奴隷主と奴隷との間にはある種の友愛の関係が生じうるのである。我々は、以下の点を注記しないわけにはいかない。すなわちもし奴隷が、ある法の制度に関与する者と看做されるならば、彼は諸権利の主体となり、単なる対象、もしくは魂のない道具であることをやめる」

 まさしくアリストテレスは『ニコマコス倫理学』第八巻で、友愛論の視点から奴隷主と奴隷のあいだには友愛が生じると述べている。それゆえまた、先に述べたように、友愛の存在するところ、共同的関係が存在し、また共同的関係が存在するところ正もまた存在するとされるのである。

「事実、奴隷は魂を有する道具(オルガノン)であり、道具は魂無き奴隷である。それゆえ奴隷は奴隷としては、彼にたいする友愛は存在しない。しかし人間としてはそうではない。なぜなら、あらゆる人間にとって、法と協約を共有することのできるすべての人間に対するある種の正は存在すると考えられ、したがってまた友愛も存在すると考えられる。相手が人間である限りにおいて」(『ニコマコス倫理学』第八巻第11章1161b4-8)。

 こうしてアリストテレスにおいては、自然本性的な奴隷的統治にはある種の正が存在するとされるのであるが、それはかれの第1次的自然的正と第2次的自然的正の乖離に対する凝視から生じた見解であった、といってもよいであろう。奴隷であっても人間である以上、もし奴隷主が奴隷を人間として扱えば、かれらのあいだにはある種の共同的結合関係(コイノーニア)が形成されるであろう。そこに正と友愛関係が生じるであろう、というのである。

 しかながら、この見解のレヴェルにアリストテレスの奴隷制の見解はとどまったのであろうか。再度その論理を検討してみよう。ここで今一度この第2次的自然的正の考え方が、ある種の帰結的思考の上に成り立っていることを想起しよう。一方に洞察力ある理性的人間が存在し、他方に理性的能力において劣ってはいるが肉体的能力に秀でた者が存在するところでは、一方が奴隷主に、他方が奴隷となって1つの仕事を行うのが双方にとって有益であることが、多くの人々の観察と経験的判断となり、それに基づいて自然的奴隷制が成立した、とされたのである。しかしながらこの自然的奴隷制にたいしても、アリストテレスはある種の難問を提示している。すなわち誰が自由人としての理性を有する人間に相応しいのか、誰が不十分な理性しか有しない奴隷の身分に相応しいのか、という具体的な問題が生じるが、それについては、現実には判定不能であるというのである。

 第1に、野蛮人(バルバロイ)は奴隷に相応しいとし、ギリシャ人は自由人に生まれついているという見解を紹介したうえで、次のようにいっている。

「かれらは、人間からは人間が、動物からは動物が生まれるように、善き人からは善き人が生まれると主張しているのである。しかし、確かに自然はしばしばこのようにしようと努めるのであるが、そうすることができないのである」(1255b1-4)。

 この発言は、たとえ人が野蛮人(バルバロイ)に生まれたとしても、だからといって必ずギリシャ人に劣った人間になるとは限らない、という趣旨であろう。

 さらに、奴隷の肉体が肉体的労働に耐える頑健な体質を持つことに対して、自由人の肉体が市民的政治的活動に役立つ端正な体質を持つ、と述べたうえで、「しばしばそれと反対のことが生じることもある」とし、さらに「奴隷が自由人の肉体を持ち、自由人が奴隷の魂をもつということも生じる」というのである。さらにこのような肉体上の差が自由人と奴隷の間にあるとした上で、「肉体についてこのことが真実であるとすれば、魂についてこのように規定されるとしても、それはいっそう正当なことであろう。しかし魂の美を見ることと肉体の美をみることは同じように容易であるわけではない」(1254b34-1255a1)。とされるのである。

 それゆえ、こうした自然本性的奴隷制の論理は、それ自体極めて危ういバランスの上に始めて正当化されるものであったということができる。自由人が正当に奴隷を統治するためには、みずからを、「奴隷の魂ではなく」洞察力ある理性的人間に陶冶していく以外にないということになろう。アリストテレスの政治学の要が教育論にあったのもこうした要請に応えるためであった。

 さらに注目すべきは、『政治学』第七巻の理想的国家体制を論じているところで、アリストテレスは、すべての奴隷に、褒賞として自由を提示していることである。

「しかし奴隷たちをどのような方法で使用すべきか、またすべての奴隷たちに自由を褒賞として置くのがいっそう良いことであるのは何故か、については後に述べる事にしよう」(『政治学』第七巻第10章1330a32-33)。

 奴隷が自らの陶冶の結果として自由人的な魂を手に入れる可能性を視野においていたというべきであろう。もちろんこのアリストテレスの議論は、それ自体実現の困難な理想的国家体制の中での議論でもあることから、直ちに現実的提言ということはありえない水準のものである。しかし彼の奴隷論が生物学的、遺伝的形質にもとづくものではなく、あくまでも社会的歴史的制度としての奴隷制論であったことを示唆していると解することはできる。

 また先にのべたように、かれにとっては、自然的な奴隷制は制度として第2次的な意味での自然的正の産物であったから現実的な廃止の対象にはならなかったのも当然の帰結であった。しかし個別的解決としては、アリストテレスは、自分の遺言に自分に仕えた奴隷に自由の身分を与えることを約束した、と伝えられているのである。アリストテレスは、いつかはあのアルキダモスの発言が社会的現実になることを予想していたのであろうか。

その7へ続く

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